silence
2.5m
『しかし、こっけいなくらい語彙は貧困だった。彼女の頭が、ちょうど僕の鼻の位置にあり、僕が「君の髪の匂い」と呟くと、彼女が「くりくり丸い」と後を受けて、僕の尻を小刻みにさすりつづける。言葉が有効なのは、いずれ相手を他人として識別できる2.5メートルの線までのことである。』
『一日じゅう、僕らは体の一部をたえず接触させつづけていた。半径2.5メートルの輪をはみ出すことは滅多になかった。その距離だと、ほとんど相手が見えないのだが、べつに不都合は感じない。部分を想像の中でつなぎ合わせれば、結構見えているような気持ちになれたし、それ以上に相手から見られていないという解放感が大きかった。』(安部公房「箱男」)
他人として識別できる2.5メートル。それ以上離れると個人的な関係が取りにくかったり、個人的なやりとりができなくなったりする。でも形式的な話をすることができなくなる距離というのはいかがなものか。近すぎて何を言っても届かなかったり、言うこと自体滑り落ちてしまうことは多々あった。悲しかった。以心伝心というにはほど遠いくらい、分かり合ってないのに交わす語彙が貧困ではわかり合える筈もない。
砂
人が、砂のようだと感じたことはないですか。どこの世界に行っても砂は平均直径1/8mm。流動的で、沢山あると大きな力をもつ。たくさんの人が電車から出てくるときはいつも穴のあいた袋からこぼれ出る砂のように思える。決して腐らず、砂漠を見れば砂の強さはよくわかるはず。人は腐るけど。働いてると、その動きにとても翻弄されている気がする。今日は週末だから・・・たくさん流れてくる。今はきっと田舎に流れていく。世の慣例に従って皆同じように流れていく。都心はとても流動的で、その流れに乗れない吹き溜まりのような砂(人)たちがたくさんいる。それが腐ってなんて言い方は変だけど、新宿は腐臭がすると思う。人は徒党を組めば強大な力をもつし、でも一粒ではとてもとても価値が見出せない。流れに乗っていれば楽だし、乗れなくて風の吹くまま流されていくのもいい。砂はしっかりとつかまえてないと手からサラサラと流れ落ちてしまう。
覗くこと覗かれること
最近、安部公房の【箱男】を読みふけっている。
電車の中とかで読んでてその描写はスパッと真剣で切られたような気分になる。
冬だからかな。でもその切られ心地は気持ちいいのです。マゾかな。
元々はカメラマンだった男が箱を被って街を小窓から覗く。
”見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある”
”小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
雨のしずく……濡れてちぢんだ革の手袋……
大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。
国会議事堂だとか、世界地図だとか……”
繊細で鋭い描写。カメラマンならではの暗室の描写があって、すごいの。
“写真家っていうのは根が下衆だからな”
って箱男は言われるんだけど、確かにカメラマンだった時に撮ってたものは
風景とか人物とかじゃなく、 スキャンダラスで淫靡なものばかりだった。
私は、報道写真家ってのは下衆だと思っていた。
今も報道被害や報道倫理についてきちんと考える必要があると思う。
でも・・・私も下衆な野郎に成り下がってしまったのだろうか。
覗かれることには慣れてない。
ファインダー覗くだけの立場になりたくて、写真を撮る。
撮ることには愛があるが、撮られることには憎悪がある。
最近やっと慣れてきたけどやっぱり自分の写真を
どう処理したらいいかわからずにいる。